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2020年03月14日

愛人に遺体を放置された作曲家は、わが子に試練を与えた獅子王だった

Johann Strauss Vater



ヨハン・シュトラウス2世は男ばかりの4人兄弟で、四男のエドゥアルト・シュトラウス1世は父親の顔をほとんど知らずに育った。彼等の父ヨハン・シュトラウス1世は誰もが知る作曲家で、自らの名を冠した楽団を4つ持ち、毎晩ウィーンの街で開かれる演奏会の間を馬車で掛け持ちする人気者でした。顔は知らずとも、息子たちはこの世に生を受けた時から父ヨハン・シュトラウス1世のワルツを聞いて育った。
ヨハン2世は、両親のできちゃった結婚で生まれた子供です。父の1世は代々の音楽家の家出身ではなく、相当な苦労やライバルとの激闘の末に定評を得るようになった人です。そのため自分と同じ苦労はさせまいと、嗜みとしてピアノを習わせる以外に、子供たちが音楽に触れることを許しませんでした。しかし、優れた音楽家のもとに生まれたヨハン2世が、同じ才能に秀でるのも無理のないことです。卓上ピアノの前に立ち、何やら曲らしいものを弾いている男の子はまだ、6歳。母親のアンナが五線譜をわたすと、たどたどしいながらも、その子はワルツを書きとめていた。アンナはその曲に《最初のワルツ》と題名を書き入れる。ヨハン・シュトラウス2世の処女作である。母アンナは息子の才能を見抜き、彼に音楽の教育を受けさせようとした。シュトラウス2世は、父に憧れ音楽家を目指すようになります。わずか8歳で隣人にピアノを教え、自分で稼いだ金でヴァイオリンを購入。毎日、鏡の前で父の身振り手振りを真似していました。が、ある日、そんな姿を父に見られてしまいます。激怒した父は、息子のヴァイオリンを奪い叩き壊します。かつて安酒場で酔っぱらい相手に日銭を得ていた父親は、音楽界の非情さを知るばかりに同じような苦労を息子にさせまいと猛反対。息子は、父親の楽団員から、こっそりヴァイオリンを教えてもらうなどしていましたが、それを知った父はその楽団員を即座にクビにしてしまう。彼は楽団内でも家庭でも絶対のリーダーでした。
父ヨハン1世は、音楽家は浮き草稼業であると考えていたので、ヨハン-シュトラウス2世を技師学校に入学させました。夫への対抗心からでしょうか、母は息子の音楽家への夢を積極的に応援しました。父親の楽団のメンバーの世話になるわけにはいかない。シュトラウス2世は、宮廷歌劇場のヴァイオリン奏者からヴァイオリン演奏を、楽理の教授や宮廷付き教会のオルガン奏者からは音楽理論を学んだのです。これは結果的に、ブラームスとの関係や、生涯最後に歌劇を作曲しようとした話しに至ります。
さて、父ヨハン1世と母アンナの間にはいつしか溝ができ、やがて父は帽子作りを行うエミーリエという名のお針子の愛人をつくり家出、ヨハンたちへの送金もとだえてしまった。息子は父の愛情を知らずに育ちます。
ヨハン・シュトラウス2世は母の理解で技師学校をやめ、18歳で音楽家としてデビューしました。当時の法律では20歳以上でないと音楽家になれませんでしたが、彼は父親が愛人をつくり家庭を顧みないこと、18歳のヨハンが家族を守らなければならないことを涙ながらに訴えることで役所を説き伏せ、ヨハン・シュトラウス2世の音楽家としてのキャリアがスタートすることになりました。この時、母は夫に離縁状を叩きつけます。シュトラウス2世の音楽家デビューは、母と息子の父への挑戦でした。受けて立つ父は、ウィーン中の名だたる店に圧力をかけ息子の出演を妨害した、といわれています。
母子一体の努力のかいあって、ヨハンは19歳で自分の楽団を作り、1844年10月15日、シュトラウス2世のデビューコンサートは開催されます。定員600名の店は立錐の余地もない超満員でした。父ヨハンを見習い、ヴァイオリン片手に演奏しながら指揮をするというスタイルをとり、のちに“シルクハットをかぶった猫”と呼ばれるほどしなやかな姿であった。父の『ローレライ・ラインのひびき』をすばらしく演奏して、人々を感動の渦に巻き込んだ。この時演奏された自作曲が「記念の歌」です。なんと19回もアンコールされたといいます。まさに若き天才の記念碑となる曲でした。公演後の新聞紙上には、「さよならランナー! おやすみ、シュトラウス1世! こんにちは、シュトラウス2世!」という言葉が踊ったのでした。
父ヨハン1世はヨハン・シュトラウス2世のデビューを妨害したが、家庭を捨てた父ヨハン1世に代わって家庭を支える青年音楽家と言う美談が広まり、指揮者、バイオリン奏者、作曲家としてヨハン_シュトラウス2世の才能が広く認められました。
反対したにもかかわらず音楽家になった息子と、デビューを妨害しあまつさえ愛人のもとに入り浸る父親。そんな経緯もあり、ヨハン・シュトラウス2世と父との関係は、なかなか改善しなかったといいます。しかし、おりしも音楽界で『ワルツ王』の異名をとっていた偉大な父、ヨハン・シュトラウス1世の名は、音楽家として生きていく以上避けては通れないものでした。父とはライバル作曲家と目され、互いに楽曲を発表しあう激しい「戦い」をしていくことになります。これらの一連の流れを「ワルツ合戦」と呼ぶこともあります。
親子で何と言うことなんでしょう。しかし、やはり親子というべきでしょうか。父と母との離婚が正式に成立し時がたつと、やがて2人は和解し、お互いに音楽上の協力を行うまでに関係は改善しました。ところが尾ひれが付きます。この不倫の結末は悲惨なもので、愛人の子供がかかっていた病気にヨハン・シュトラウス1世が感染すると、あっけなく息を引き取ってしまいます。さらにこの愛人はヨハン・シュトラウス1世の遺体を放置して、荷物をまとめて家を出てしまいました。
父ヨハン・シュトラウス1世が亡くなると、父の楽団や名声までもをヨハン・シュトラウス2世が一手に引き受けることになり、次第にオーストリアのみならずヨーロッパ中で絶大な人気を博すこととなっていきました。父のヨハン・シュトラウス1世の異名であった『ワルツ王』は、いつの間にか彼の異名となりました。『ウィーンの太陽』『ウィーンの皇帝』などと呼ばれることもあり、大衆からの人気のみならず当時の音楽家からも最も優れた作曲家であると認められるほどでした。こうして、ヨハン・シュトラウス2世は、偉大な父の名声を乗り越え、名実ともに『ワルツ王』となっていったのです。


Posted by analogsound at 23:37
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