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2020年05月17日
青春期の日本 ― 男子をボヲヤ、女子をゲロというように英語を覚えた新聞の父

青春期の日本 ― 日系米人第1号の帰着
アメリカがもっと若く、ジパングである日本は、列強の示威の前にひたすら身をすくめていた。その時代に、何の備えもなく、欧米と東アジア、すなわち『世界』に直面させられた17名もの日本人がいた。
ジョセフ・ヒコが、1859年(安政6)5月17日、神奈川県米領事館通訳として9年ぶりに長崎に帰着した。
彼の幼名は彦太郎(のち浜田彦蔵)。兵庫県の船頭の息子に生まれた正真正銘の日本人だが、13歳のとき栄力丸で江戸へ出かけました。江戸見物を終えての帰り、船が嵐で難破し、太平洋を52日間漂流していました。漂流して53日目の朝、彦太郎ら17人はアメリカ商船オークランド号に救助され、育てられた。1851(嘉永4)年3月、サンフランシスコの港に着きました。サンフランシスコに着いたヒコは、税関長で優れた企業家であったサンダースに認められ、彼の秘書として働くようになりました。
明治の日系米人第1号となった彼は、「男子」をボヲヤ(boy)、「女子」をゲロ(girl)というように英語を覚えたという。
サンダースに同行してニューヨークを訪れたとき、初めて見るガス燈や蒸気機関車に大変驚きました。またワシントンでは、日本人として初めてピアース大統領に会う機会を得るなど、ヒコは多くの刺激を受け見聞を広げていきます。
日本に帰ったヒコはアメリカ領事館通訳として働きますが、1年で辞めて再び商社を設立し、民間での本格的な新聞第1号『海外新聞』を発刊したことでも知られる。
新聞は、ヒコが外国の新聞を翻訳し、岸田吟香と本間潜蔵がひらがな交じりのやさしい日本文に直したものでした。「新聞誌」の名で発刊された新聞は、半紙4・5枚に筆写したものをこよりで綴り、横浜市内に100部程度配っていました。
横浜では、まだ外国人が迫害を受け、新聞の発行は身を危険にさらす行為でしたが、「童子にも読なん(子どもにも読まれる)」とする編集方針や18号から広告を掲載するなど、開拓精神に満ちた新聞づくりは現在の新聞の土台を築き、今でも高く評価されています。
Posted by 武者がえし at 23:35
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