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2020年10月29日
ベートーヴェンの『ゴルトベルク変奏曲』(?) ― ポリフォニーの音楽へ急接近する最後の3つのソナタを聴き比べる

ヴィヴァーチェとアダージォの相違は単に外見上のものであるに過ぎない。全体はあたかも一気に型にいれられて鋳られたもののごとく、 即興的に奏されねばならない。
大ピアニストであったエドヴィン・フィッシャーのベートーヴェンのピアノ・ソナタの講演記録に、そうあったことでか、この作品109の演奏は感傷的に流れる演奏がしばしば行われこととなりました。はたしてこの頃、ベートーヴェンは既に52歳になっています。ベートーヴェンの聴覚はそのころ全く絶望的でした。ベートーヴェンは強音ではしばしば聴くに耐えない雑音がしても意に介しない風であったし、また弱音では、あまりのタッチの弱さに、和音がごっそり抜け落ちてしまって何を演奏しているのか判らなくなってしまって、人々はベートーヴェンの恍惚とした音楽にささげた崇高な顔を見て、胸が痛んだと言われています。
ベートーヴェンの危機の1813年頃から9年の歳月が経っていて、彼の創作にはある落ち着きが現れています。ベートーヴェンの脳裏に、創作の基本とも支柱とも頼りとしたのは過去に聞いたバッハ、 ヘンデル、パレストリーナなど、すなわちポリフォニーの音楽です。ベートーヴェンは、アルブレヒツベルガーからむかしに学んだが習得することのなかったフーガに対する関心が急速に高まって、熱心に探究し始めたのでした。
ベートーヴェンの最後の3つのピアノ・ソナタ、作品109、110、111は、1820年頃から1822年に渡って書かれたようです。
「モチーフをレンガのように組み立てる」という中期のソナタの作曲法を脱却した、柔軟性の高い第1楽章は、神秘的な美しさで聴く人の心をとらえます。序奏はなく、無駄のない形式の中に込められた曲の内容は幻想的で、それまでのベートーヴェンのピアノソナタには見られなかった柔軟性が示されている。第2楽章はは第1楽章から切れ目なく演奏される。
全曲の重心のほとんどは変奏曲の第3楽章に置かれており、変奏曲がこれほどの比重を占めたのはベートーヴェンのピアノソナタでは初めてのことであった。
「心からなる感動を持って、歌に満ちみちて」(Gesangvoll, mit innigster Empfindung)と付記されている美しい主題と変奏曲はベートーヴェンの他の曲にはかってありません。 ゆったりとしたテンポで静かに曲が開始される。3拍子の2拍目に付点音符が置かれることにより、主題にはサラバンドのような性格が与えられている。ようやく諦観にひたれる時期に達したベートーヴェンの精神状態が、遙かなる昔の良き日を思い、敬虔な祈りとなって昇華してゆきます。
最後に次第に弱まりながら主題が原型のまま回想され、静かに曲を閉じる。このように最後に主題がそのまま回想されて終わる変奏曲であるという特徴から、この楽章はバッハの『ゴルトベルク変奏曲』との類似性を指摘されている。
このソナタの完成が1820年の秋であったのか、または1821年になってからであったのかははっきりしていない。1820年9月20日にシュレジンガーに宛てて送られた書簡では、最後の3つのソナタのうち最初の作品の「完成」が近いことが語られている。しかし、ここでの「完成」が意味するところが構想の決定であるのか、送付可能な浄書譜の完成であるのかは不明である。
最近の研究から、これら3つの最後のソナタは、ベートーヴェンの「不滅の恋人」と関連があるというのが通説となりました。
ベートーヴェンが死んだとき、彼の机の秘密の引き出しから3つの遺品が発見されました。ハイリゲンシュタットの遺書と、宛名も日付もない3通の恋文と、テレーゼ・ブルンスヴィックのミニアチュア肖像画です。
ベートーヴェンが作品78の可愛らしいピアノ・ソナタを捧げているテレーゼは、現在ボン市のベートーヴェンの生家に飾られている彼女の等身大の油絵を彼に献呈していました。その油絵の裏には「類まれなる天才ベートーヴェンに」という彼女のサインが記されています。ちなみに彼女は生涯独身でした。
さらに最近になって、ベートーヴェンの13通の恋文が発見されるに及んで、俄然「不滅の恋人」はテレーゼではなくて、彼女の妹、ジョセフィーヌ・ブルンスヴィックではなかったかという疑問が湧き出てきたのです。しかし、これも決定的な結論を得ることが出来ませんでした。
灯台下暗し。ベートーヴェンの身近に居た人、アントニー ・ブレンターノ夫人の存在。作品109をベートーヴェンはその娘マキシミリアーネ・ブレンターノに捧げたのです。
ベートーヴェンが生涯、誰にも迷惑のかからないようにと懸念して、じっと心の奥深く隠していたもの。病弱の夫人の隣室で、彼女を慰めるべくベートーヴェンがピアノを弾いたこと、あの激情の時期から10年も経って、ベートーヴェンは、万感の思いを込めて、それでもささやかな思いを散りばめてなんとも美しい作品を書いたのです。