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2020年10月30日
永遠なる母性を表す変イ長調 ― 後期3大ソナタの中で最もメジャーで芸術性と聴きやすさをあわせもったソナタを聴き比べる。

大作『ミサ・ソレムニス』と並行して作曲された後期三大ソナタ(第30番、第31番、第32番)。ベートーヴェンはその長い経験で得たピアノ・ソナタの書法を、自由に、そして思いのままに駆使し、これまで誰も到達することができなかった孤高の境地に踏み入りました。
珍しく誰にも献呈されなかった第31番は、しみじみと美しい第1楽章は優美な旋律と憧れに満ち、スケルツォ風の第2楽章は自由奔放な雰囲気。そしてこのソナタの核ともいえる第3楽章は、アダージョの大きな序奏とフーガで展開されます。この第3楽章はその形式も内容も独創的で斬新。「嘆きの歌」の後に3声の美しいフーガ、そして作曲家自身「疲れ果て、嘆きつつ」と記した嘆きの歌が調性を変えて再び登場、さらに今度は「次第に元気を取り戻しながら」と書かれたフーガが、転回された主題を伴いながらラストまで突き進みます。
変イ長調という調性は、ベートーヴェンにとって永遠なる母性を表す
― 「悲愴ソナタ」の第2楽章、「運命交響曲」の第2楽章、「レオノーレ」を表す ― 特別の思慕の感情の込められていた、無限に例を上げることが出来る調性です。後期三大ピアノソナタの中で最もメジャーな曲で、芸術性と聴きやすさをあわせもった曲です。しかも、コン・アマビリタ(愛をもって)と書かれた、曇りない晴れやかな主題、それに続く連綿たる愛のメロディー。このように美しい旋律で始められ、歌に満ちみちた第1楽章はベートーベンの他の作品にはないでしょう。
優しく包み込むような第1楽章に、当時ヴィーンでもて囃さていた流行歌(「うちの猫には子猫がいた」「私は自堕落、君も自堕落」)を主題にしたちょっと不気味な第2楽章が続きます。
この曲の終楽章は、最後の3曲のピアノソナタの中では最も典型的にフーガを用いたもので、バッハの平均律の影響が、色濃く出ています。ドナルド・フランシス・トーヴィーは「ベートーヴェンの描くあらゆる幻想と同じく、このフーガは世界を飲み込み、超越するものである」と述べた。
ベートーヴェン自身が書き記した「息も次第に絶えて」という指示のある「二重のアリオーソ」、「哀しみの歌」、息が絶えて死んだと思われたところからの、和音連打による復活、逆進行のフーガから主題への回帰、交代に現れる沈鬱な部分とフーガの部分といったかなり斬新な構成で、そして最後は、対位法を離れて一層大きく歓喜を表しながら、徐々に速度と力を上げていき全曲を完結させる高らかなる生命の謳歌は感動的。異名同音的転調や、声楽曲にしか使われなかったレチタティーヴォの指示が使われるなど、ロマン派的な手法がうかがえます。
またしてもシントラーに宛ての手紙によると、ベートーヴェンはこのソナタと次の第32番ハ短調ソナタを、最初はブレンターノ夫人エルケ・ビルケンシュトックに献呈すると書いていたようですが、このソナタはついに誰にも献呈されていません。
ベートーヴェン一流の自虐的当てこすりをそのまま表現したような第2楽章を挟むことで、出版時には楽譜に献辞を掲げず、献呈者なしとしたのではないか。ベートーヴェンの心のうちにあった懐かしくもいとおしい、昔の追憶の第1楽章と、現在置かれている惨めな状態、病気に打ちのめされている自分、そのなかから不屈に立ち上がらんとする彼自身の精神状態を現しているのです。