通販レコード・新着盤
2020年09月11日
カラヤンが目を閉じて腕を差し出すだけで珠玉の演奏になるわけ 第11盤 リスト 交響詩第6番 「マゼッパ」
ユゴーの「東方詩集」におさめられた長編叙事詩「マゼッパ」からの霊感
この作品の副題が示す、ポーランド国王のヨハン・カジミール宮廷に使えていた武人マゼッパと疾走する荒馬の姿を描写しています。交響詩はロマン派時代に流行った音楽形式の一つで、管弦楽によって演奏される標題音楽のことを指します。「田園交響曲」でベートーヴェンが苗を植えた標題音楽は、フランス音楽界でベルリオーズが育てて、フランツ・リストが定着させます。ロマン派時代になって変質して、文学的、絵画的な内容と結びつけられることが多く、楽曲の形式は全く自由です。
マゼッパのエピソードが伝説となって語り継がれていく間に多くの詩人にインスピレーションを与えたようで、ユゴーの前にはバイロンもこの人物取り上げています。
このマゼッパは、貴族夫人との不義密通の罪がかけられ、裸で馬に括り付けられて荒野に追放されるという刑をうけます。
しかし半死の状態で農民に救われ、やがてウクライナのコサック兵の一員となり、さらには数々の武勲をあげてついにはウクライナの英雄となるのです。
マゼッパのエピソードが伝説となって語り継がれていく間に多くの詩人にインスピレーションを与えたようで、ユゴーの前にはバイロンもこの人物取り上げています。
このマゼッパは、貴族夫人との不義密通の罪がかけられ、裸で馬に括り付けられて荒野に追放されるという刑をうけます。
雷鳴が轟く暗黒の雲が渦巻く中を音高く、風巻き起こし駈けてゆく荒馬、その荒馬に括りつけられたマゼッパを襲う様々な怪物達、マゼッパの血は果てしもなく流れいでて肉もちぎれて落つる。
しかし半死の状態で農民に救われ、やがてウクライナのコサック兵の一員となり、さらには数々の武勲をあげてついにはウクライナの英雄となるのです。

その生命の力強さ、疾走する音楽。リストの交響作品の解釈で、カラヤンの右に出る者はいないだろう。
カラヤンはレコード産業に、新しいビジネス様式も作り出しました。劇場上演には準備と経費がかかります。レコードからの売り上げが、その助けになっていきますが、カラヤンは音楽祭や演奏会のプログラムに合わせて新譜がショーウインドウに並ぶようにします。新しいツアーのリハーサルを録音して、演奏会に間に合うように商品化。演奏会が始まるときにはカラヤンの意思はオーケストラに徹底されているのですから、目を閉じていても、腕を差し出すだけで珠玉の演奏になる。これはレコード会社にも、オーケストラにとっても合理的なシステムでした。
今ではミュージシャンの当たり前になっている、仕組みですが、レコード録音はしたが、演奏会では取り上げなかったが楽曲があります。カラヤンが指揮者として演奏会で取り上げたリストの作品は「ピアノ協奏曲第1番」「ピアノ協奏曲第2番」「交響詩《前奏曲」》」「ハンガリー狂詩曲第2番」「ハンガリー狂詩曲第5番 」の5曲です。 このうち交響詩「前奏曲」、ハンガリー狂詩曲第2番、第5番は録音も残しています。
続きを読む今ではミュージシャンの当たり前になっている、仕組みですが、レコード録音はしたが、演奏会では取り上げなかったが楽曲があります。カラヤンが指揮者として演奏会で取り上げたリストの作品は「ピアノ協奏曲第1番」「ピアノ協奏曲第2番」「交響詩《前奏曲」》」「ハンガリー狂詩曲第2番」「ハンガリー狂詩曲第5番 」の5曲です。 このうち交響詩「前奏曲」、ハンガリー狂詩曲第2番、第5番は録音も残しています。
2020年09月10日
珠玉の名曲をカラヤンの名演で聴く 第10盤 ドヴォルザークの交響曲第5番・新世界より
インディアンたちが結婚の祭典で踊っている様子を描いた詩からの霊感
この作品はその副題が示すように、新世界、つまり当時ヨーロッパから新世界といわれていたアメリカから彼のふるさとであるボヘミアにあてて書かれた「望郷の歌」です。ドヴォルザークが、ニューヨーク国民音楽院院長としてアメリカ滞在中に作曲した作品で、「もしアメリカをみなかったら、こうした交響曲を書くことはできなかっただろう」とのべている。
ニューヨークの国民音楽院は、設立者のサーバー夫人の意志で、人種の差別をおかずに教育をおこなっていた。そのために、ドヴォルザークは、黒人やインディアンとも不自然な感情なしに接触することができ、黒人霊歌をはじめとする各種の音楽を好んで耳にすることにした。ドヴォルザークは、これらの音楽の語法や特徴を、自分の作曲のなかで生かしてみたいと考え、それを追求して、1893年1月10日からスケッチされはじめ、5月24日に書きあげた。そこには、未知の音楽に接したことによる意欲と同時に、故国への郷愁も盛りこまれているといえる。
イングリッシュ・ホルンが美しい主題を歌わせる第2楽章は、プラハのオーケストラにイングリッシュ・ホルンとオーボエの名手がいたからだという。ドヴォルザークの弟子が勝手に『家路』と題をつけて歌曲として売りだした楽譜に由来して、日本では「家路」という歌で親しまれている。
さらに、ドヴォルザークは、この楽章を作曲するにあたって、インディアンの伝説的な英雄を扱ったロングフェロ一の「ハイアワサの歌」の「森の葬式」の部分から霊感を得たと伝えられている。ドヴォルザークがロングフェロ一の「ハイアワサの歌」に興味をもつようになったのは、この曲の作曲よりも30年ほど前に、チュコ語で読んでからだったという。これにもとづくオペラの作曲を試みもしたようで、ニューヨークにきてからごくわずかのスケッチをのこしている。
さて第3楽章は「ハイアワサの歌」のなかの結婚の祭典のところで、インディアンたちが踊っているのを描いた詩からの霊感で作曲した。3部形式をとり、簡潔な動機から次第に主題の形をととのえてゆき、素朴な舞曲ふうのものへと発展する。やがて速度を落して、木管に哀愁味のある新しい旋律も歌わせる。中間部では、やはり木管を主体に新しい旋律を扱わせる。
ニューヨークの国民音楽院は、設立者のサーバー夫人の意志で、人種の差別をおかずに教育をおこなっていた。そのために、ドヴォルザークは、黒人やインディアンとも不自然な感情なしに接触することができ、黒人霊歌をはじめとする各種の音楽を好んで耳にすることにした。ドヴォルザークは、これらの音楽の語法や特徴を、自分の作曲のなかで生かしてみたいと考え、それを追求して、1893年1月10日からスケッチされはじめ、5月24日に書きあげた。そこには、未知の音楽に接したことによる意欲と同時に、故国への郷愁も盛りこまれているといえる。
イングリッシュ・ホルンが美しい主題を歌わせる第2楽章は、プラハのオーケストラにイングリッシュ・ホルンとオーボエの名手がいたからだという。ドヴォルザークの弟子が勝手に『家路』と題をつけて歌曲として売りだした楽譜に由来して、日本では「家路」という歌で親しまれている。
さらに、ドヴォルザークは、この楽章を作曲するにあたって、インディアンの伝説的な英雄を扱ったロングフェロ一の「ハイアワサの歌」の「森の葬式」の部分から霊感を得たと伝えられている。ドヴォルザークがロングフェロ一の「ハイアワサの歌」に興味をもつようになったのは、この曲の作曲よりも30年ほど前に、チュコ語で読んでからだったという。これにもとづくオペラの作曲を試みもしたようで、ニューヨークにきてからごくわずかのスケッチをのこしている。
さて第3楽章は「ハイアワサの歌」のなかの結婚の祭典のところで、インディアンたちが踊っているのを描いた詩からの霊感で作曲した。3部形式をとり、簡潔な動機から次第に主題の形をととのえてゆき、素朴な舞曲ふうのものへと発展する。やがて速度を落して、木管に哀愁味のある新しい旋律も歌わせる。中間部では、やはり木管を主体に新しい旋律を扱わせる。

その生命の力強さ、颯爽としたドヴォルザークが聴かれます。
カラヤンは同曲を5回、正規に録音しています。1940年3月(グラモフォン)、1957年11月(EMI)、1964年3月(グラモフォン)、1977年1月(EMI)、1985年2月(グラモフォン)です。ライブ盤も含めると7種の録音が確認されています。それはベルリン・フィルで1966年4月ライブ、チェコ・フィルで1971年8月ライブで、ベルリン・フィルと録音した2つの録音の間に挟まります。ムジークフェラインザールでの録音。唯一のウィーン・フィル盤であり、百点満点のおすすめならこれしかありませんが、2回目、3回目を聴くのはいつもワクワクします。まだ帝王色が薄い純粋なアプローチに感動させられるEMI録音のベルリン・フィルとの演奏、自信と余裕にあふれ、迫力とノリと、オーケストラの統率力において、その生命の力強さがこちらにはある。最後のウィーン・フィルとの録音は安心して聴くことができる演奏で、クラシック音楽のサウンドに浸るに申し分ありませんが、こと本盤の第4楽章のスピード感はたまりませんでした。颯爽としたドヴォルザークが聴かれます。ぜひ一度聞いていただきたい。
続きを読む2020年09月09日
カラヤンが愛した交響曲・管弦楽曲〜珠玉の名曲をカラヤンの名演で聴く 第9盤 ビゼー アルルの女組曲
親友に受け継がれたメロディー
この作品はアルフォンス・ドーテの戯曲「アルルの女」の劇附随音楽として作曲されました。ベストセラー「風車小屋だより」でその名をはせたフランスの文豪ドーデ。当時33歳だったビゼーは劇場の支配人からこの戯曲の上演に向けて劇付随音楽を書くように依頼されます。本を読んだビゼーは緻密に描写されたドーデの世界に大きく感銘を受け、短期間のうちに次々と音楽を作り上げていきました。また、ビゼーは物語の舞台であるプロバンス地方を過去に訪れたことがあり、その経験も生かし、地域色豊かな音楽に仕立て上げました。
戯曲の方は大成功を収めアルフォンス・ドーテの名声を不動のものにしましたが、ビゼーの音楽の方はあまり評判がよくなかったという話が伝わっています。理由ははっきり分からないのですが、どうも「アルルの女」を上演した劇場のオーケストラが小編成で技術的にも問題があったのではないかと推測されています。
しかし、作曲をしたビゼーの方はこの作品に絶対の自信を持っていたようで、劇伴全27曲の中からお気に入りの4曲を選んで演奏会用の組曲に仕立て直しました。これがアルルの女の「第1組曲」です。この組曲の方はビゼーの死後に発表されると大好評を博しました。そして、「第2組曲』はビゼーの死後、親友のギローが新たに4曲を選んで組曲にしました。こちらは、ビゼーが「アルルの女」のために作曲した劇伴だけでなく広くビゼーの音楽の美しさを広めるものでした。フルートの活躍が印象的な有名な第3曲のメヌエットは「美しいパースの女」からの転用です。
戯曲の方は大成功を収めアルフォンス・ドーテの名声を不動のものにしましたが、ビゼーの音楽の方はあまり評判がよくなかったという話が伝わっています。理由ははっきり分からないのですが、どうも「アルルの女」を上演した劇場のオーケストラが小編成で技術的にも問題があったのではないかと推測されています。
しかし、作曲をしたビゼーの方はこの作品に絶対の自信を持っていたようで、劇伴全27曲の中からお気に入りの4曲を選んで演奏会用の組曲に仕立て直しました。これがアルルの女の「第1組曲」です。この組曲の方はビゼーの死後に発表されると大好評を博しました。そして、「第2組曲』はビゼーの死後、親友のギローが新たに4曲を選んで組曲にしました。こちらは、ビゼーが「アルルの女」のために作曲した劇伴だけでなく広くビゼーの音楽の美しさを広めるものでした。フルートの活躍が印象的な有名な第3曲のメヌエットは「美しいパースの女」からの転用です。

いい曲を聴いたともう一度聞き返してしまう〜タンバリンの謎
ビゼーは30歳代を過ぎた頃から持病の扁桃腺の炎症が悪化し辛い日々を送りますが、そんな彼のもとにいつもギローの姿がありました。時にギローはビゼーにピアノを弾いて聴かせては、ビゼーを励ましたが、現在では歌劇場のレパートリーに欠かせない歌劇「カルメン」の再演中。舞台上でカードで運命を占う場面で不吉なカードが出たときに、ビゼーは心臓発作を起こし、36歳という若さで帰らぬ人となります。
親友の突然の死に悲しみにくれたギローがまとめた、新しい組曲。それは、生前ビゼーが残した組曲とは全く異なる「第2の組曲」でした。カラヤンの演奏は文句のつけどころなく、気の遠くなるような陶酔から、血湧き肉躍る、フォルティッシモまで、この短い組曲に、カラヤン=ベルリン・フィルの本領が存分に発揮されています。1970年12月28,29日にベルリンのダーレムにあるイエス・キリスト教会での録音。残響が優れたオーケストラの響きを豊かに聴かせます。
ビゼーは、サクソフォーンをオーケストラで一番最初に上手く使った作曲家でした。カラヤン時代のベルリン・フィルで、サクソフォーンのエキストラ奏者は、フランスでクラシック・サックス演奏の基礎を築いたといわれるダニエル・デファイエです。
続きを読む親友の突然の死に悲しみにくれたギローがまとめた、新しい組曲。それは、生前ビゼーが残した組曲とは全く異なる「第2の組曲」でした。カラヤンの演奏は文句のつけどころなく、気の遠くなるような陶酔から、血湧き肉躍る、フォルティッシモまで、この短い組曲に、カラヤン=ベルリン・フィルの本領が存分に発揮されています。1970年12月28,29日にベルリンのダーレムにあるイエス・キリスト教会での録音。残響が優れたオーケストラの響きを豊かに聴かせます。
ビゼーは、サクソフォーンをオーケストラで一番最初に上手く使った作曲家でした。カラヤン時代のベルリン・フィルで、サクソフォーンのエキストラ奏者は、フランスでクラシック・サックス演奏の基礎を築いたといわれるダニエル・デファイエです。
2020年09月08日
今もなおカラヤンの音楽が聞き続けられるワケ〜珠玉の名曲をカラヤンの名演で聴く 第8盤 チャイコフスキー 弦楽セレナード
この印象的なオープニングに対して、弦の人数は多ければ多いほど良い
チャイコフスキーはロシア民族楽派の音楽家らから「西洋かぶれ」という批判を受け続けるのが、この作品で色濃く出ている西洋的側面が最も対象となっています。2年前に完成した「ヴァイオリン協奏曲」の第1楽章が西ヨーロッパのヴァイオリン協奏曲様式を踏襲していたとおりチャイコフスキーの数ある作品の中で、このセレナーデほど古典的均衡による形式的な美しさにあふれたものはありません。
チャイコフスキー自身もこの作品はモーツァルトへの尊敬の念から生み出されたものであり、特に第1楽章は手本としたモーツァルトに近づけていれば幸いであると述べています。ですから、この作品を貫いているのはモーツァルトの作品に共通するある種の単純さと分かりやすさです。
そうはいっても、19世紀以降に書かれたチャイコフスキーやドヴォルザークなどの「弦楽ためのセレナード」などは、18世紀おけるモーツァルトのセレナードとは全く違う種類の音楽になっています。
チャイコフスキー自身もこの作品はモーツァルトへの尊敬の念から生み出されたものであり、特に第1楽章は手本としたモーツァルトに近づけていれば幸いであると述べています。ですから、この作品を貫いているのはモーツァルトの作品に共通するある種の単純さと分かりやすさです。
そうはいっても、19世紀以降に書かれたチャイコフスキーやドヴォルザークなどの「弦楽ためのセレナード」などは、18世紀おけるモーツァルトのセレナードとは全く違う種類の音楽になっています。

最高峰のオーケストラの稀有の響きで「完成度」の高い「録音」を作りあげた
ロマン的な情感を表出させつつバロックや古典的形式への接近も見られる、モーツァルトへのオマージュとして書かれたチャイコフスキーの弦楽セレナード。モーツアルトのディベルティメントと共に最高の美の姿がある。またカラヤンのアプローチは最高で、この優雅で情熱的な美は比類がありません。弦の透明感や力強さは秀逸。深い哀しみを表すような、重厚な序奏から、いきなり始まる「チャイコフスキー:弦楽セレナード」はそれだけでもインパクトがあります。この序奏を終えると、「運命的で、憂いをこめたメロディ」がたたみかけるように、現れてきます。
カラヤンが多くの人々から受け入れられた最大の魅力は、ベルリン・フィルというオーケストラを徹底的に鍛えて、未だ誰も耳にしたことがなかったような希有の響きを実現したことであり、その希有の響きによってきわめて「完成度」の高い「録音」を作りあげたことでしょう。とりわけ、「録音」という行為に関して言えば、それがもっている「価値」をはじめて明らかにした指揮者でした。
この研ぎ澄まされたベルリン・フィルの弦楽アンサンブルから生まれる豊かな響きは、こう鳴らすのだというお手本のようなものでしょう。速いパッセージでもアンサンブルの狂いはありません。チャイコフスキーもこの印象的なオープニングに対して、弦の人数は多ければ多いほど良いという希望を持っていたようです。
第1楽章「ソナチネ形式の小品」の冒頭の重厚な和音を聴いた瞬間、紛れもないカラヤンがイメージした世界最高のアンサンブルの凄みが伝わってきますし、圧倒的な量感ある音の塊が飛び込んできます。
続きを読むカラヤンが多くの人々から受け入れられた最大の魅力は、ベルリン・フィルというオーケストラを徹底的に鍛えて、未だ誰も耳にしたことがなかったような希有の響きを実現したことであり、その希有の響きによってきわめて「完成度」の高い「録音」を作りあげたことでしょう。とりわけ、「録音」という行為に関して言えば、それがもっている「価値」をはじめて明らかにした指揮者でした。
この研ぎ澄まされたベルリン・フィルの弦楽アンサンブルから生まれる豊かな響きは、こう鳴らすのだというお手本のようなものでしょう。速いパッセージでもアンサンブルの狂いはありません。チャイコフスキーもこの印象的なオープニングに対して、弦の人数は多ければ多いほど良いという希望を持っていたようです。
第1楽章「ソナチネ形式の小品」の冒頭の重厚な和音を聴いた瞬間、紛れもないカラヤンがイメージした世界最高のアンサンブルの凄みが伝わってきますし、圧倒的な量感ある音の塊が飛び込んできます。
2020年09月07日
カラヤン得意の名曲をカラフルな音楽美で聴く 第7盤 チャイコフスキー 眠れる森の美女のワルツ
魅力的な旋律ときらびやかな響き
「白鳥の湖」の大失敗で、二度とバレエ音楽は書かないと心に決めていたチャイコフスキーにもう一度バレエ音楽を書かせたのは、マリンスキー劇場の監督官だったウセヴォロジェスキーでした。
口当たりのいい伴奏音楽しか書かない座付きの作曲家がロシアバレエを堕落させている原因だと危惧していた、この監督官はチャイコフスキーに作曲の依頼をすることにしたのです。チャイコフスキーはこの監督官の情熱に押し切られるような形で「眠れる森の美女」の作曲を承諾し、スケッチをはじめます。が、草稿が完成したときには「この作品は私の生涯でもっともすぐれた作品の一つになると思います。」と自身を取り戻していました。
その後オーケストレーションも完成して、総譜は振り付け師のプティパの手に渡り、入念な稽古の末に皇帝臨席のもとに初演が行われました。
しかし、結果は予想外に芳しくなく、皇帝は「結構でした。」と一言述べただけだったと伝えられています。
未だにバレエというものは踊り手の妙技を楽しむものであって、音楽はあくまでも添え物としての伴奏にすぎないという従来からのスタイルに慣れきった宮廷に人々には「難しすぎた」と言うこともあるでしょう。
さらに言えば、振り付け師のプティパ自身も、音楽が持っている全体的な統一感よりは、個々の小さなシーンを一つずつ完結するようにする従来からのやり方を踏襲したために、両者の間に不調和が生じたためだとも言われています。
当時の新聞には「チャイコフスキーの音楽は演奏会用作品でまじめすぎ、重厚すぎた」と書かれています。
口当たりのいい伴奏音楽しか書かない座付きの作曲家がロシアバレエを堕落させている原因だと危惧していた、この監督官はチャイコフスキーに作曲の依頼をすることにしたのです。チャイコフスキーはこの監督官の情熱に押し切られるような形で「眠れる森の美女」の作曲を承諾し、スケッチをはじめます。が、草稿が完成したときには「この作品は私の生涯でもっともすぐれた作品の一つになると思います。」と自身を取り戻していました。
その後オーケストレーションも完成して、総譜は振り付け師のプティパの手に渡り、入念な稽古の末に皇帝臨席のもとに初演が行われました。
しかし、結果は予想外に芳しくなく、皇帝は「結構でした。」と一言述べただけだったと伝えられています。
未だにバレエというものは踊り手の妙技を楽しむものであって、音楽はあくまでも添え物としての伴奏にすぎないという従来からのスタイルに慣れきった宮廷に人々には「難しすぎた」と言うこともあるでしょう。
さらに言えば、振り付け師のプティパ自身も、音楽が持っている全体的な統一感よりは、個々の小さなシーンを一つずつ完結するようにする従来からのやり方を踏襲したために、両者の間に不調和が生じたためだとも言われています。
当時の新聞には「チャイコフスキーの音楽は演奏会用作品でまじめすぎ、重厚すぎた」と書かれています。

1939年に当時のSPレコード(78回転30センチ盤両面に約9分を収録できるフォーマット)に初録音したカラヤンは、生涯にわたってレコーディングに熱心に取り組み、1982年にコンパクト・ディスクが開発された際は、その収録時間に影響を与えたことでも知られています。LPレコードのフォーマットには、彼がベルリン・フィルの首席指揮者に就任する直前の1950年頃から、ベルリン・フィルを完全に自らの“楽器”とし、インターナショナルな存在へと変貌させた1980年代まで、彼の絶頂期の演奏が刻み込まれており、かつ彼自身が選曲や演奏ばかりでなく、装丁や録音にも深く携わったものが多く、カラヤンとレコーディングの関係を知るうえで欠かすことができません。
続きを読む2020年09月06日
「楽壇の帝王」カラヤンが今でも愛されるワケ〜珠玉の名曲をカラヤンの名演で聴く 第6盤 パッヘルベルのカノン
キレのあるアダージョ
美しいアダージョのメロディばかりを集めた究極の癒しのアルバムとして1995年の発売以来20年もの間多くの音楽ファンに支持され、単独のアルバムとしては全世界で500万以上のメガ・ヒットを記録した『アダージョ・カラヤン』。この人気アルバムを買いに出かけたご婦人が、ヘルベルト・フォン・カラヤンの文字を見て「私が欲しいのはヘルベルト・フォン・カラヤンではなくアダージョ・カラヤンというほうのアルバムよ」と言ったという笑い話があった。微笑ましいこれは今でも通用する。
1955~1989年までの長きに渡って終身指揮者・芸術監督を務めたベルリン・フィルハーモニー管弦楽団との蜜月は、時代の寵児としての「カラヤン指揮ベルリン・フィル」を大きくクローズアップする原動力となっていた。
録音においては、制作されたアルバム数なんと約900点。そしてその販売総数は1億枚を突破しているというのだから驚く。ちなみに1億枚のCDを積み上げると富士山79個分の高さになるのだとか。そしてその録音の内訳となる総曲目数は1189曲(再録音などを含む延べ数)。こちらは仮に1カ月に1曲録音したとして99年かかる計算だ。
録音だけでなくライブも凄まじい。その生涯に行われたコンサート数は、判明しているだけで3198回。これは毎週1回コンサートを行ったとして62年間かかる計算だ。こうした驚異的な数字の数々は、カラヤンが記憶だけでなく記録にも残るスーパースターであったことの証だろう。
1966年に避暑地のサンモリッツで、気のおけないベルリン・フィルのメンバーと気楽な感じで演奏会やセッション録音を行っています。録音クレジットを見てみるとこれらの録音は1966年の8月17日から23日にかけて行われているのですが、驚くのは、ベルリンに舞い戻って、25日からダーレムのイエス・キリスト教会でワーグナーの「ワルキューレ」の録音を開始している。おそらく夏の休暇と言っても、日課として発表されていたように、休暇中の午前中は「ワルキューレ」のスコアとにらめっこしていただろうなと想像されます。
カラヤンの手際の良さと聴かせどころを把握する上手さは絶品だ。カラヤンが時代を超えて愛される理由はこのあたりにあるのだろう。今月はクラシック音楽の大名曲を、カラヤンがベルリン・フィルと録音した名演奏中から、最大公約数ではなく最小公倍数でわたしが選んだ30曲を紹介しています。一流のシェフが最高の材料を使って仕上げた料理のような名曲の数々をぜひ堪能してほしい。
1955~1989年までの長きに渡って終身指揮者・芸術監督を務めたベルリン・フィルハーモニー管弦楽団との蜜月は、時代の寵児としての「カラヤン指揮ベルリン・フィル」を大きくクローズアップする原動力となっていた。
録音においては、制作されたアルバム数なんと約900点。そしてその販売総数は1億枚を突破しているというのだから驚く。ちなみに1億枚のCDを積み上げると富士山79個分の高さになるのだとか。そしてその録音の内訳となる総曲目数は1189曲(再録音などを含む延べ数)。こちらは仮に1カ月に1曲録音したとして99年かかる計算だ。
録音だけでなくライブも凄まじい。その生涯に行われたコンサート数は、判明しているだけで3198回。これは毎週1回コンサートを行ったとして62年間かかる計算だ。こうした驚異的な数字の数々は、カラヤンが記憶だけでなく記録にも残るスーパースターであったことの証だろう。
1966年に避暑地のサンモリッツで、気のおけないベルリン・フィルのメンバーと気楽な感じで演奏会やセッション録音を行っています。録音クレジットを見てみるとこれらの録音は1966年の8月17日から23日にかけて行われているのですが、驚くのは、ベルリンに舞い戻って、25日からダーレムのイエス・キリスト教会でワーグナーの「ワルキューレ」の録音を開始している。おそらく夏の休暇と言っても、日課として発表されていたように、休暇中の午前中は「ワルキューレ」のスコアとにらめっこしていただろうなと想像されます。
カラヤンの手際の良さと聴かせどころを把握する上手さは絶品だ。カラヤンが時代を超えて愛される理由はこのあたりにあるのだろう。今月はクラシック音楽の大名曲を、カラヤンがベルリン・フィルと録音した名演奏中から、最大公約数ではなく最小公倍数でわたしが選んだ30曲を紹介しています。一流のシェフが最高の材料を使って仕上げた料理のような名曲の数々をぜひ堪能してほしい。

1939年に当時のSPレコード(78回転30センチ盤両面に約9分を収録できるフォーマット)に初録音したカラヤンは、生涯にわたってレコーディングに熱心に取り組み、1982年にコンパクト・ディスクが開発された際は、その収録時間に影響を与えたことでも知られています。LPレコードのフォーマットには、彼がベルリン・フィルの首席指揮者に就任する直前の1950年頃から、ベルリン・フィルを完全に自らの“楽器”とし、インターナショナルな存在へと変貌させた1980年代まで、彼の絶頂期の演奏が刻み込まれており、かつ彼自身が選曲や演奏ばかりでなく、装丁や録音にも深く携わったものが多く、カラヤンとレコーディングの関係を知るうえで欠かすことができません。
続きを読む2020年09月05日
珠玉の名曲をカラヤンの名演で聴く 第5盤 モーツァルト ディヴェルティメント第17番から《メヌエット》
音楽の形式をとった最も純粋で、明朗で、この上なく人を幸福にし、最も完成されたもの
ディヴェルティメントというのは18世紀に流行した音楽スタイルで、SPレコードからステレオLPレコードが登場する頃まで日本語では「嬉遊曲」と訳されていました。このディヴェルティメントとよく似た形式としてセレナードとかカッサシオンなどがあります。これらは全て貴族などの上流階級のための娯楽音楽として書かれたものだと言われていますが、音楽辞典にたよるとディヴェルティメントは屋内用の音楽で、セレナードは屋外用の音楽だった。さらに、ディヴェルティメントは6楽章構成、セレナードは8楽章構成が典型的な形と説明していますが、モーツァルトは楽章構成を見ても6楽章構成にこだわっているわけではありませんし、楽器構成を見ても管楽器だけによるもの、弦楽器だけのもの、さらには両者を必要とするものと多種多様です。
後年に目録化された全集の都合上、この「第17番」と番号が割り振られた「ニ長調 K.334」は「ロビニッヒ・ディヴェルティメント」とも呼ばれている、モーツァルトのディヴェルティメントの中で最も有名な作品です。モーツァルト一家は古くからザルツブルクの富豪ロビニッヒ一家と親交があった。依頼は夫人のヴィクトリアからで、息子ジークムントがザルツブルクの大学を修了するに当たってのフィナール・ムジークでした。ザルツブルク司教に使えて、教会のための演奏に明け暮れてうんざりしていた若い作曲家が思いのままに、友人たちに向けて贈った応援の曲だったのでしょう。
後年に目録化された全集の都合上、この「第17番」と番号が割り振られた「ニ長調 K.334」は「ロビニッヒ・ディヴェルティメント」とも呼ばれている、モーツァルトのディヴェルティメントの中で最も有名な作品です。モーツァルト一家は古くからザルツブルクの富豪ロビニッヒ一家と親交があった。依頼は夫人のヴィクトリアからで、息子ジークムントがザルツブルクの大学を修了するに当たってのフィナール・ムジークでした。ザルツブルク司教に使えて、教会のための演奏に明け暮れてうんざりしていた若い作曲家が思いのままに、友人たちに向けて贈った応援の曲だったのでしょう。

1939年に当時のSPレコード(78回転30センチ盤両面に約9分を収録できるフォーマット)に初録音したカラヤンは、生涯にわたってレコーディングに熱心に取り組み、1982年にコンパクト・ディスクが開発された際は、その収録時間に影響を与えたことでも知られています。LPレコードのフォーマットには、彼がベルリン・フィルの首席指揮者に就任する直前の1950年頃から、ベルリン・フィルを完全に自らの“楽器”とし、インターナショナルな存在へと変貌させた1980年代まで、彼の絶頂期の演奏が刻み込まれており、かつ彼自身が選曲や演奏ばかりでなく、装丁や録音にも深く携わったものが多く、カラヤンとレコーディングの関係を知るうえで欠かすことができません。
続きを読む2020年09月04日
珠玉の名曲をカラヤンの名演で聴く 第4盤 スメタナ 連作交響詩「わが祖国」から《モルダウ》
母なる川を描いた音楽
作曲の背景には、他国の支配下にある祖国チェコに寄せたスメタナの熱い思いがありました。スメタナは、当時オーストリアの支配下にあったチェコの人々のために新しい曲を作曲しました。祖国の風景や神話を一連の交響詩に作曲し、連作交響詩「わが祖国」を完成させます。組曲「我が祖国」は以下の6曲から成り立っています。しかし、「組曲」と言っても、全曲は冒頭にハープで演奏される「高い城」のテーマが何度も繰り返されて、それが緩やかに全体を統一しています。モルダウ川のまたの名は「チェコの母なる川」。国境の森を源流とし、首都のプラハを通って、エルベ川へと流れ込みます。チェコの大動脈として、文化をはぐくみ、繁栄をもたらしてきました。この作品はそのタイトル通りモルダウ川をテーマとしており、楽譜には具体的な場所や情景が描かれています。チェコの美しい自然と人々の暮らしが音楽で表現されています。「モルダウ」の最後を飾るメロディーはチェコの民謡「コチカレゼディーロウ」の引用です。チェコの人ならだれでも子供のころに歌ったことのある有名なこの民謡。今は雨の降るような苦しい状況にあっても、いつかは必ず晴れて明るい未来がやってくる、という民謡のメッセージをスメタナは「モルダウ」に込めたのです。この作品は、他国に支配されているチェコの人々に明るい未来を示し、その思いを誰も止めることのできない川の流れで表現しています。
1939年に当時のSPレコード(78回転30センチ盤両面に約9分を収録できるフォーマット)に初録音したカラヤンは、生涯にわたってレコーディングに熱心に取り組み、1982年にコンパクト・ディスクが開発された際は、その収録時間に影響を与えたことでも知られています。LPレコードのフォーマットには、彼がベルリン・フィルの首席指揮者に就任する直前の1950年頃から、ベルリン・フィルを完全に自らの“楽器”とし、インターナショナルな存在へと変貌させた1980年代まで、彼の絶頂期の演奏が刻み込まれており、かつ彼自身が選曲や演奏ばかりでなく、装丁や録音にも深く携わったものが多く、カラヤンとレコーディングの関係を知るうえで欠かすことができません。

この東欧の草原を思わせる風景画と共に、いかにも往年の名盤として思い出される一枚。
リスト「前奏曲」、「ハンガリー狂詩曲第2番」、スメタナ「高い城」、「モルダウ」。帝王カラヤン&ベルリンフィルの東欧もので代表的な名盤。絵画風オリジナル・ジャケット。1960年12月、ベルリン、イエス・キリスト教会での録音。演奏は自信に満ちた重厚感。リストの交響詩「前奏曲」が、第二次大戦中に、ナチス・ドイツがラジオによる大本営発表の際、テーマ曲としてその一部を使用していた。チェコやハンガリーは動乱の多かった地域。他の収録曲、「モルダウ」や「ハンガリー狂詩曲」などは管弦楽曲の入門曲としての定番といえるもの。カラヤンとベルリン・フィルは、こうした管弦楽曲の演奏にすばらしい力を発揮することが多いが、カラヤンの生まれ育ったザルツブルクはドイツの一部という認識で併合されているままだ。果たしてカラヤンの胸中に去来した思いはあったのか。迫力のある明快な音響を楽しむことができる。リストの2曲は1970年代までは名曲喫茶でも愛好されていた。テープ録音が最長10分だった名残か、デジタル録音になるとめっきり減った。バロック音楽のブームが置き換わっていった。このデザインの表紙でCDは、「ハンガリー狂詩曲第4番」、「ハンガリー狂詩曲第5番」、「メフィスト・ワルツ第1番」をともにして、リストの管弦楽曲だけを一枚にまとめられている。
続きを読む2020年09月03日
珠玉の名曲をカラヤンの名演で聴く 第3盤 ヨゼフ・シュトラウスのワルツ《天体の音楽》
カラヤンが自伝の中で「血の中を流れている」と語る楽曲たち
ドイツ・グラモフォンはクラシック音楽の音のカタログ化を目標としていたが、カラヤンは30歳でレコーディングを経験する。驚きの抜擢で、レコード録音も黎明期である。当時最高の指揮者たちは「音の缶詰」と言って鼻を摘んでいたからだ。戦前のベルリン国立歌劇場管、コンセルトヘボウ管、そしてベルリン・フィルを相手に、後年に比べてかなり濃厚でロマンティックな表情も随所に見せるカラヤン30歳代の演奏は、1980年代に最高に達するが、カラヤンは過去に録音した名曲は例外はあるが全て後年にベルリン・フィルでレコードを録音し直している。
1939年に当時のSPレコード(78回転30センチ盤両面に約9分を収録できるフォーマット)に初録音したカラヤンは、生涯にわたってレコーディングに熱心に取り組み、1982年にコンパクト・ディスクが開発された際は、その収録時間に影響を与えたことでも知られています。LPレコードのフォーマットには、彼がベルリン・フィルの首席指揮者に就任する直前の1950年頃から、ベルリン・フィルを完全に自らの“楽器”とし、インターナショナルな存在へと変貌させた1980年代まで、彼の絶頂期の演奏が刻み込まれており、かつ彼自身が選曲や演奏ばかりでなく、装丁や録音にも深く携わったものが多く、カラヤンとレコーディングの関係を知るうえで欠かすことができません。

わが人生は愛と喜び
ヨーゼフ・シュトラウスは、1827年オーストリア生まれで、ワルツ王として有名なヨハン・シュトラウス2世の弟にあたります。兄や父と違って最初は工学技師を目指していましたが、病気の兄の代役で指揮を務めたことがきっかけで音楽家としてデビュー。生涯で280曲以上の作品を残しました。
繊細で詩情豊かな作風は“ワルツのシューベルト”と呼ばれ、その才能についてはワルツ王の兄も、「ペピ(ヨーゼフの愛称)のほうが才能がある。私はただ人気があるだけだ」と言ったということです。
そんなヨーゼフ・シュトラウスの代表作がワルツ「天体の音楽」です。タイトルは、宇宙全体がひとつのハーモニーを奏でているとする古代ギリシャ思想“天球の音楽”から来ています。
曲は5つの小ワルツから構成されています。ワルツのメロディももちろん美しいですが、冒頭の静かな序奏部が夜空を見渡すような神秘的なムードをかもし出していて、とりわけ魅力的です。
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そんなヨーゼフ・シュトラウスの代表作がワルツ「天体の音楽」です。タイトルは、宇宙全体がひとつのハーモニーを奏でているとする古代ギリシャ思想“天球の音楽”から来ています。
曲は5つの小ワルツから構成されています。ワルツのメロディももちろん美しいですが、冒頭の静かな序奏部が夜空を見渡すような神秘的なムードをかもし出していて、とりわけ魅力的です。
2020年09月02日
珠玉の名曲をカラヤンの名演で聴く マスカーニの歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」交響的間奏曲
誠意と情熱を傾けたカラヤン珠玉の名演奏
カラヤンの追悼でリリースされた、「アダージョ・カラヤン」というCDが何百万枚も売れて、柳の下のドジョウをねらって同じようなCDが企画されたのですが、「アダージョ・カラヤン」以外はさっぱりだった。クラシック音楽の大名曲から美しい旋律ばかりを集めたLPはCD時代でより盛んになっていましたが、録音された時期も作曲時代もちぐはぐなものからアダージョだけを並べただけだというのに、企画されて演奏されたものだったような統一感。良くも悪くも、そこがカラヤンの凄さ。旋律が沸き立つような流麗な音楽、スリルを感じるスピード感がカラヤンが昔の指揮者と違っていたところだが、アダージョ楽章の遅さはカラヤンの生涯変わるところがなかった本質の部分だった。

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